米国におけるスポーツセーフティーとKorey Stringer Institute -Korey Stringer Institute(KSI)-
Korey Stringer選手の死とKSIの設立
2001年、米国のプロアメリカンフットボールリーグ(NFL)のミネソタバイキングスの選手であったコリー・ストリンガー選手がトレーニング中に熱射病になり、現場で十分な処置が施されなかったために翌日死亡するという事故が起きました。その後、彼の妻ケルシー・ストリンガーはNFLや防具メーカーなどに対して訴訟を起こし、2009年にNFLと和解に至ることができました。彼の死を無駄にしないようにと誓ったケルシーは、訴訟で勝ち得た賠償金を基金として裁判で鑑定人を務めたコネチカット大学のダグラス・カサ教授と共に Korey Stringer Institute(KSI)を2010年に設立しました。
KSIの活動
KSIはスポーツにおける突然死の予防とエビデンスに基づいたスポーツ医学のスペシャリストです。KSIは安全なスポーツ環境づくりと、スポーツにおける突然死の予防を推進するための支援活動や研究活動、スポーツに関する安全基準の作成などに取り組んでいます。また、最新の情報提供を行うためマスメディアを通じた啓発活動や、コンサルティングなども主とした活動としています。これらの活動は大学やプロスポーツのみならず、中学校や高校、すべてのレベルでのニーズに対応しています。
当初は熱射病研究とその予防の啓蒙を専門としていましたが、近年では脳震盪や心疾患などスポーツ現場で頻繁に見受けられる様々な突然死について研究・教育・広報活動を行っています。
またスポーツセーフティー以外にも熱射病患者の競技復帰におけるコンサルティングや、暑熱環境下におけるスポーツパフォーマンスの向上のコンサルティングも行っています。近年では米軍のトレーニング安全基準や労働者の労働安全基準にも暑熱環境下の安全とパフォーマンス向上の知識を応用しています。
KSIのスタッフ
KSIのスタッフは運動生理学者であるとともにほとんどがアメリカBOC公認のアスレティックトレーナー(AT)の資格を持っており、医療従事者(ヘルスケアプロフェッショナル)としてスポーツ現場で働いています。日頃から医師と臨床現場でコミュニケーションをとったり、アスリートと働いたりしているため、一般の運動生理学者よりも現場のニーズに敏感で科学的知識を臨床に応用する能力に長けているのも特徴です。
アスレティックトレーナーの普及と医療費抑制の関係
KSIでは全米の高校にアスレティックトレーナー(AT)を普及させ学校スポーツの安全向上と、社会的なATの認知度向上および医療従事者としての立場の確立を目指しています。しかしながら、ATの行う業務が医療費削減に貢献しているという証明がされないと、予算を理由に高校におけるATの雇用がなかなか進みません。そこでATがいることで、選手のQuality of Life (QOL)の向上だけでなく、どれ程の医療費を削減することができるのか、ATの医療費に関する定量的効果の研究を進めています。
そこで保険会社の協力のもと、匿名で学校スポーツ中に起きた傷害ごとにどの程度医療費が掛かったかなどの情報を取得し、その際ATがいたのか、いたとすれば雇用形態はどのようなタイプ(フルタイム、パートタイム、スポット)なのかを検証しています。現時点では、パートタイムの方がフルタイムよりも医療費が掛かっていることがわかりました。なぜなら、パートタイムでは怪我が起きても時間的な制約によりケアに関与できないため、他の医療機関に送ることを余儀なくされるために余計に医療費がかかってしまうのです。
2012年からKSIでは全米の高校を対象にATの雇用形態の調査を行っています。第一段階では2年半かけて全米全ての高校に直接電話をかけ、ATがいるかいないか?いない場合はなぜか?いる場合は学校から直接雇用されているのか?それとも病院からの派遣なのか?勤務時間はパートタイムかフルタイムか?パートタイムの場合は、コンタクトスポーツだけを優先的にみているのか?それともすべての学生を対象にATサービスを提供しているのか?等を電話で調査しています。
また昨年からは各学校のAT雇用状況をオンライン化し、全米の学校を地図化したデータベースを開けば一目で雇用形態がわかるようなっています(図1)。現在では米国アスレティックトレーナー協会と各州のAT協会と連携し、リアルタムで地図がアップデートされるようになっています。(http://ksi.uconn.edu/nata-atlas/)このようにKSIではスポーツセーフティーの側面から、大学やプロスポーツに関わらず、学生スポーツにおけるATの普及に努めています。
熱中症予防からパフォーマンス向上へ
KSIでは熱射病の予防やスポーツセーフティーのみならず、スポーツパフォーマンス研究も盛んに行われています。例えば、縦断的にスポーツチームの練習・コンディショニング・試合をGPSやアクセロモニターなどの機材を駆使して観察するのに加え、各選手の健康状態のスクリーニングや採血によるバイオマーカーの観察をおこない、スポーツ障害の予防やパフォーマンス予測に還元できないか研究をすすめています。他にも運動時のウェアラブルテクノロジーの共同開発や検認実験も行っています。
今後の展望
KSIではスポーツに関する突然死の予防の為の情報をホームページ(http://ksi.uconn.edu)やその他のソーシャルメディアを通じて積極的に発信しており、AT、コーチ、アスリートや、アスリートの保護者らにおける認知度は上がってきました。しかしながらスポーツとの縁が直接ない一般の方々の認知度はまだまだ低いのが現状です。コミュニケーション・教育部門のディレクターとしての目標は、KSIが赤十字などのように、疾患をもっていない人でもどんな組織であるか連想することができるところまでKSIの認知度を上げていくことです。
KSIの強みはスポーツセーフティーという今まで未開発だった分野に関し、運動生理学的、医学的、そして科学的なバックアップができる研究者と臨床家の集まりという点です。またNPOであると同時に大学という研究機関に所属することで、企業の影響を心配することなく研究機関としての確固とした立場をもっているのも強みのひとつです。将来的には日本にもKSIのような研究・教育機関をつくり、米国で培ったスキルを日本のスポーツ文化に合った形で応用し、日本のスポーツセーフティーに貢献したいと考えています。